2014年3月12日水曜日

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月10日


福井県武生の現場に通ったのも長くて3週間程度ではなかったかと思いますが、細かいことは思い出せません。ただ、現場での仕事が終わりに近づいた頃だったように記憶しているのですが、長野オリンピックでのスキージャンプの団体競技金メダルがありました。

当日は繰り返し金メダル獲得の場面をテレビで放送していたと思いますが、午後に現場事務所の2階で、その場面をテレビで見ていたことを印象的に憶えています。一棟建ての割と大きな現場事務所で2階が作業員の休憩所になっていたと思います。

他の現場では現場の監督や担当者と打ち合わせをしたり、その親会社の名前を知ることも多かったのですが、武生の現場では、そういう記憶がなく、どこの下請けだったのかも憶えていません。雪の降る寒い時期だったことはよく憶えています。

雪の中での作業をはっきり憶えているのは、津幡の日本たばこ産業の工場の現場とこの武生の現場ぐらいでしょうか。だいたいの時期の特定にもつながるのですが、他の現場では余り雪のことを記憶にしておらず、時期がはっきりしないことにもなっています。

辰口の石川動物園の現場は、雪がかなり積もった状況で一度仕事に行ったことがありました。事前の下調べのような感じで、雪かきなどから始めていたように思います。山間に近かったので、もともと雪の多い場所という感じもありました。

この下調べのような仕事の時は、安原工業団地のS設備のIさんも一緒だったと思います。Iさんについては、まだ説明をしていないと思いますが、S設備の番頭というか現場責任者、社長のナンバー2という感じの存在でした。当時40歳代ではなかったかと記憶しています。

被告訴人KYNが宇出津の山道という配管設備の会社で働いていた頃の先輩で、当時からの長く親しい付き合いだと聞きましたが、私が出会い、知ったのはKYNのところで仕事をするようになってからです。金沢市内入江のアパートに一人暮らしで住んでいました。

そのアパートにも一度は遊びに行ったのでよく憶えているのですが、歩いて近いところにアンカーインというスナックのような飲み屋がありました。KYNに連れて行かれ、その店でIさんに会ったのが初めのはずです。初めのうちは単なる知り合いになった常連客かと思っていました。

被告訴人KYNのところで仕事をするようになって1週間か10日ぐらい経った頃ではなかったかと思うのですが、仕事が終わり家に帰って22時ぐらいになって、電話が掛かりKYNに来るように言われたのもアンカーインでした。

店に行ったのはその時が2回目だったような気がします。店に行って一緒になってからKYNに、今日はお前の誕生日だろう。誕生日祝いに酒の席を設けてやったような趣旨のことを言われました。私自身誕生日のことは意識していませんでしたが、11月26日という日付ははっきりしています。

店に入った最初からそうだったのか記憶にないですが、カウンターの席に座っていたことを記憶しています。店に入ったときKYNの姿はなく、しばらく待ったような気もするのと、OKNもいたような気が少しはするのですが、前後のことや細かいことは現在思い出せません。

一番強く憶えていることは、後の方になってK君の彼女とその友達という女の人が来たと言うことです。あとでKYNがそれらしいことも話していましたが、私に対する彼女の紹介として連れてきたようでした。私の方がほとんど無反応だったので会話にもならなかったと思います。

K君の年ですが、これも現在は思い出せなくなっています。24歳ぐらいだったような気もするのですが、平成4年の時点で16歳だったという話が一番の目安にやりそうです。平成10年を基準に単純に6年をプラスすると22歳ということになりそうですが、二十歳でも未成年でもなかったとは間違いないと。

K君と初めて会ったのは平成9年の1月の終わりか2月でした。私が福井刑務所を満期で出所したのが同年1月18日であったことははっきりしていますが、それからしばらくしてのことです。宇出津の実家にいたところ、ある日の夜、事前の連絡もなくKYNが訪ねてきました。

家の中に招いた記憶もないので、被告訴人KYNはタクシーに乗ったまま訪問し、私に同乗するように誘ったと思います。タクシーはそのまま越坂の「天国」という飲み屋に直行しました。

越坂は小木の一部のような場所です。中学校も同じ小木中学校ですし、日本百景の一つにもなっていると聞く九十九湾があるところで、百楽荘などの観光ホテルもいくつかあるところです。小木も平成9年当時はまだ珠洲郡内浦町でしたが、平成17年より宇出津と同じ能登町になっています。

その天国という店のことは小学生高学年の頃から話としてしっていました。当時、宇出津にはマリモというキャバレーのような飲み屋があったのですが、小学生の子供の間でも何というか当時の世相も反映したかたちで特別な場所、商売として認識されていたのです。

友達の母親が小木の方にある天国というマリモと同じようなキャバレーのような店で会計の仕事をしていると聞いたのが初めでした。その母親は、その前にも小木にあるマルゲンというスーパーでレジの仕事をしていると聞いていました。

マルゲンというのは宇出津の駅前の近くにあったスーパーが本店でしたが、小木の店と同時に2,3年前にいきなり閉店しました。宇出津の方の店は半年ぐらい前かに改装されて、「のむら」という呉服屋の店舗になりました。

書いておこうと思っていたことですが、被告訴人OKNは一時期、そのうしつの「のむら」という呉服屋で仕事をしていたことがありました。2,3ヶ月ぐらいではなかったかと思いますが、私が金沢で生活していることもあり、余り会わない時期でもありました。

「のむら」より前だったように思うのですが、同じ宇出津で「漁運会」の保冷車に乗っていると話していたこともありました。。一応は運送会社のようですが、運転手はトラックの持ち込みで給与体系というか報酬も、かなり変わっているという話だったと思います。

平成26年になった現在でも宇出津の魚市場の近くを通ると漁運会のトラックを決まって2台ぐらいはみかけますが、ずいぶん数が減ったような印象もあります。どこか別のところにトラックの駐車場があって私が知らない可能性もあるとは思いますが、見かける機会も減っているとは思います。

同じ石川県内で鮮魚を運ぶ仕事をしていた時期もありましたが宇出津の漁運会については話を聞く機会もほとんどなかったです。小木運送とは前にも書いたように一緒に仕事をすることもあったのですが、どうも宇出津港からの鮮魚のみを運んでいたのではと思います。

被告訴人YSNも平成9年の1月の終わり頃の電話で、少し前まで宇出津の魚市場で金沢まで4トン保冷車で鮮魚を運ぶ仕事をしていたと話していました。新崎と言っていましたが、私は知らない会社でした。その後意識するようになり、魚市場でそういうトラックを見かけるようにはなりました。

「M君と被告訴人KYNがトラブルを起こした花屋」という項目をGoogleの地図サービスのマイマップに追加しました。URLは次になります。残念ながらURLのパラメータとして項目の特定まではできないみたいです。

告訴事件と関連のある金沢市内の場所 https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zW8zvRyoSBg4.kcVzYakZOUcc&hl=ja

「木梨松嗣弁護士と思われる人物が通行人だった性的サービスの店の辺り」という項目というか目印もついでに追加しておきました。先日に説明済みかと思います。花屋のことはまだでしょう。

「天国」の3女と知り合ったのは昭和58年の1月頃かと思います。昭和57年の9月の初め頃から同年12月一杯まで私は、名古屋市港区にいました。戻ってしばらくした頃だったと思います。場所は被告訴人OSN兄弟の家でした。

本書においてはまだ書いていないと思いますが、OSN兄弟には妹がいました。私より学年で二つ年下です。その年代の女子ではリーダー的な存在で、家の方もその友達や後輩のたまり場になっていました。天国の3女のHMも初めは妹の友達として遊びに来ていたようです。

HMは小木中学校でしたが、OKNの妹とは同級生でした。能都中のこの年代には目立った生徒が3人いまして、この3人も先日説明した万寿山の暴力事件に参加していました。暴力事件の主体は私より一つ年下の年代でしたが、ほとんどがほぼ更正の方向に進んでいました。

同じ暴走族のグループとしての付き合いがあったり、一人は小木の漁師としてよく付き合いのある時期もありましたが、私もOKNも二つ年下の年代との付き合いの方が、多くなっていきました。

被告訴人OKNが妹の同級生の友達であるMちゃんと付き合うようになったのも昭和57年の前半かと思います。これは別の先輩を介したところから知り合ったようです。先輩の親戚が同級生でMちゃんを連れて遊びに来ていたことがきっかけでした。

このあたりはプライバシーに配慮した方がいいと思う問題もあるのでぼかして書きますが、その先輩はもともと被告訴人OSNと仲がよかったのですが、決定的な対立となり、暴力団絡みの他の問題も起こったのですがグループの分裂にもつながっていきました。

昭和57年の春から夏のことでした。OSNが大きなはさみを振りかざして、倒れている先輩の馬乗りになり、突き刺そうとする場面もその場で目撃しています。私がホーク2というバイクに乗っていた短い時期だったので、5月頃のことかと思います。

その昭和57年の春頃になると、私は先輩の家に遊びに行くことが多くなっていました。二つ年上の先輩で宇出津の魚市場の近くに家がありました。そこでは被告訴人HTNとも何度か顔を合わせることがありました。姫のNさんも同様でした。

先輩とOSNが仲直りすることはありませんでした。初めのうちは先輩の方で気を遣っていたのですが、他のことで本気で怒るようになりました。共通の友人知人も多かったのですが、この辺りも人間関係を難しく、煩わしくさせていました。

もともとの原因は被告訴人OSNの父親にあったのですが、それもお金絡みの問題でした。外見的にはかなり似たような問題でOSNの父親は、2少年の殺人事件を起こしています。私が福井刑務所に服役中のことですが、知ったのは平成9年の2月頃でした。

被告訴人KYNがK君と二人で訪ねてきて一緒に「天国」に行った後のことであったと思います。半月ぐらい間が空いていたでしょうか。2月の10日か中頃のことであったように記憶しています。

夜の21時か20時前の石川県内ニュースでした。美川の二少年殺人事件というような見出しになっていたと思いますが、その控訴審の初公判が開かれたというニュースで、割と珍しい姓と聞き覚えのある名前の組み合わせで、O兄弟の父親の名前と顔写真がテレビに出たのです。

本人より先に、すぐに金沢の被告訴人KYNに電話を掛け、どうなっているのかと説明を求めましたが、すごく不機嫌そうに満足な説明はなかったと記憶しています。妹が泣いて大変だったというのが、一番印象に残っている話です。

1月18日には福井刑務所に被告訴人OSN、被告訴人OKN、被告訴人KYNの3人が私の母親を連れて3人で迎えに来ていました。事前の連絡がなかったというのも気になるところでしたが、それ以上に迎えに来たときの3人の重苦しい雰囲気が、ただごとではない気配を感じさせていました。

そもそも被告訴人OSNと被告訴人HTNは兄弟分ともいわれるような仲のよい関係でしたが、中途半端に知る私の立場から見ると、私とOSNの付き合いが始まった昭和56年の夏頃以降は、接点自体が少ない感じでした。能都中の中学時代に特に仲がよかったことは考えられます。

会話の中でHTNの話が出ても長い間会っていないような感じの話しぶりでした。そもそもHTNの人に知られたくはないだろうというヤクザになった経緯を、誰彼なく人前で話していたので、HTNがそれを知っていたとすれば、あきらめの一方、とんでもないと思っていたことでしょう。

被告訴人HTNに関しては昭和55年の6月頃、小木分校を退学になったのも、ずいぶんと不本意なことであったと聞いていますし、原因になった松波の同級生を長い間、すごく恨んで不満を繰り返し口にしていた姿は、私自身とても印象的に憶えています。

被告訴人KYNのところのM君ですが、彼も個性的な人物でしたが、いくつか被告訴人HTNに似ていると思うところがありました。はっきり共通する事実として耳にしたのは、M君も以前金沢市内の暴力団に所属した組員であったことがあるということで、それもHTNと同じ松元組でした。

M君をK君以上に重視する理由として、M君が仕事上のミスにかこつけて私に危害を加える可能性を仄めかしていたことです。態度や行動のことですが、仄めかしたと表現してよいでしょう。それを咎めもせず、協力、支援するような態度を見せていたのも被告訴人KYNでした。

最後の手段として作業事故を装い私を殺すか、酔っぱらった上でのケンカ沙汰を装って、これも傷害致死にするという可能性が考えられました。それはKYN個人の考えや意志と言うよりは、その方向に向かって背後から利用されていると言うことも考えられました。

そのような自分にとって最悪の結果を想定し念頭に置いた上で、私は彼らと仕事をし付き合いをしていました。とにかく、M君が入ってから飲みに行く頻度がすごく多くなったし、M君の粗暴な振る舞いも、常に喧嘩に発展する可能性がつきまとっていました。

ほとんど一緒にいたK君は笑いながら、いつも弱そうな相手に絡んでいるとも言っていましたが、地ならしのような事実の既成化であって、本番の示し合わせた相手だと傷害致死という目的に向けた、いろいろな演技演出もできるはずです。

M君が本当に松元組に所属していたかどうかも不明ですが、計画の材料だとすればHTNのことを意識したものであった可能性はより高いと言えるかもしれません。

そもそも私は平成9年1月18日に福井刑務所を出所してから一度も被告訴人HTNに会っていません。これは彼だけでなく周囲もかなり気を遣った上でのことであったことが考えられます。

実際は平成10年の宇出津のあばれ祭りの時、私はキリコを担ぎながら被告訴人HTMと思える人物を認め、手を振るか合図を送りました。相手は目を泳がせるように視線は逸らせ、気づかないようにしていました。本来盛り上がっているはずの祭りで、とても醒めた反応にも見えました。

被告訴人HTNと思しき人物は円を描くようなかたちで数人とたむろをするように座っていました。高田醤油屋の前です。ここは祭り2日目のメインとなる梶川の橋のすぐ側でした。橋の上から神輿を川に落とすのが、見所のひとつで人も大勢集まるところでした。

私が担いでいたのは被告訴人KYNの町内、酒垂のキリコでした。酒垂は町と呼ばれる9つほどの町内の一つで、これは宇出津の魚市場から警察署の範囲に相当しますが、昔からこの町の町内があばれ祭りの先頭を仕切るという決まりがあるのです。

つまり祭りの序盤でのんびりした時間帯でありました。酒垂のキリコは長い時間、梶川の橋の上にもとまっていましたし、こちらに歩いてくれば顔を合わす可能性も高かったはずですが、引き返してまで声を掛けようとは思わなかったので、それっきり会うこともありませんでした。

M君においては仕事中の手抜きも甚だしいものがありました。配管の仕事というのは最終的に専用の機器で漏れの検査をやらねばならず、機器に異常が出る間は、漏れの箇所を探し出して補修する必要がありました。

配管のつなぎ目の漏れの原因はいくつかありましたが、その一つが締めの足りなさです。場所によっては作業が困難な上、つながっている配管の継ぎ手の向きが変わって逆に締めすぎてしまうかもしれないという判断も必要であったかと思います。

配管というのはネジキリとも呼ばれる旋盤を使ってねじ山を作ることが多い作業でした。短い間隔で複数の部品を取り付けることも多く、そういうのは現場内における特定の場所で、ちょっとした作業台のようなものを使って組み立てることが多い作業でした。

実際の取り付けとなる現場では身動きもままならないということもあるぐらいで、そうでなくても高所の空中であったり、水も溜まった地下のピットの中であったり、まあ、作業のしにくいことが普通でした。なお、高所では脚立や高所作業車を使います。

M君は作業台を使ったネジ締めでも、「こんでたくさんやぁー」と言いながらゆるゆるのいい加減に目地を締めていることもありました。とにかく何をしようと被告訴人KYNがM君を咎めたり、注意することはなかったと思います。

M君が来て間もない頃の福井県武生市の現場においても、配管の漏れによる手直しはあったように思います。高所作業車で作業できたので比較的ましだったとは思いますが、配管が複雑だったので、一つの箇所を直すのに、すごい数の手直しが必要だと思い知らされたような記憶があります。

辰口庁舎の現場でもあったように思いますが、配管の漏れの箇所を探すだけでも、丸一日、あるいは2,3日と時間をつぶすことがあったと思います。M君が関わった場所に限って、そういう問題もあったと思います。基本的に辰口庁舎の担当はK君でした。

M君が担当ということになっていたのは石川動物園の現場でした。現場の作業が大詰めになった頃であったように思いますが、ここでも配管の漏れで、調べ回るという仕事に明け暮れたことがありました。この時、気に掛けたのは目の前の配管の爆発でした。

配管には大きく3つのつなぎ方がありました。ネジ式と接着剤とガス溶接の3つです。ビニール系の配管はほとんどが接着剤を使ったものでした。

他の観点からは給水、排水という区別も出来たと思います。排水では水圧の問題は余りなかったと思います。給水の場合は流れる水圧に応じた耐久性の違いがあったと思います。

私の記憶では一平方ミリセンチあたりに17キログラムの圧力が掛かるというのが、テストにおける最大の基準だったと思います。それはずいぶんとすごい圧力だとKYNらから説明を受けていました。あるいは平方センチだったのかもしれないですが、17㎏というのはよく憶えています。

消防車の放水した時の水圧はMAXどのくらいですか? - Yahoo!知恵袋 http://bit.ly/1nothND で調べてみたのですが最大で10㎏平方センチと書いてありました。普通の人が一人では持っていられないそうです。

17㎏の話を最初に聞いたのは河北郡高松の現場でした。現在は「のと里山海道」という名称になっているのかと思いますが「能登有料道路」を走行中にも見える建物だったと思います。Googleマップで調べると出てくるかもしれません。名前もなんとなく一部を記憶しています。

石川県かほく市高松丙1−5 山越(株) - Google マップ http://bit.ly/1h2SX55 ← こちらでした。

外から見るとライスセンターのような建物でしたがかなりの高さがありました。私たちが作業をしていたのは反物を保管するような倉庫で、鉄骨の骨組みのようなものが3メートルほどの間隔でならんでいました。骨組みの高さは20メートルと聞いていました。

消防法で義務づけられたスプリンクラーの設置が仕事でした。反物を出し入れする1メートル半か2メートルぐらいの間隔でスプリンクラーを取り付けていたように記憶しています。大動脈のような本管は直径が15センチではなかったかと記憶しています。

配管はインチで呼ぶことが多かったようにも思います。おおよそ2,5ミリが1インチだと聞いていたので6インチになるのかと思います。定尺の長さは5メートルになっていたと思います。少し前までは7メートルのものがあったけど、廃止になったような話を聞いていました。

鉄製のような配管でしたがライニング管だったようにも思います。コーティングがされていて重量も重く値段も高いと聞いていました。一人で持つのはきつい重さでもあったと思いますが、正確な重量は知らないか、聞いても忘れました。

配管用炭素鋼管・ステンレス鋼管 http://www4.ocn.ne.jp/~katonet/kagaku/paipu.htm ← こちらを参考に調べてみたのですが6インチは内径で1メートル辺り20㎏近くになりそうです。5メートルだと100㎏近く。

100㎏もあったら持つのは普通の人に不可能だと思うのですが、かなりの重量感はありました。こんなのを落とすと大変なことになる、音もなく鉄砲玉のようなスピードで落下し、破壊力ももの凄いだろうと想像しました。

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