2013年9月23日月曜日

被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年 8月30日


昭和61年の3月に結婚式を挙げ6月には長男が生まれていました。被告訴人YSNを頼って岐阜県海津町に行ってのは、長男が生まれて一週間か10日後ではなかったかと思います。ライスセンターの人数の関係で金沢市に戻ってきたのは8月の20日過ぎのことでした。

金沢市場輸送に電話を掛けたとき、応対に出たのは藤村という配車係でした。何かあったらすぐにやめてもらうという条件で、再び金沢市場輸送で仕事をするようになりました。仕事内容は前回の長距離ではなく、市内配達でした。

早朝に金沢中央市場から鮮魚を積み、マルエーというスーパーの松任店、根上店、寺井店に配送する仕事だったと思います。午前中10時か10時半ぐらいに中央市場に戻り、次は青果物の売り場で、仲買の人がもってくる青果や野菜を積み込んで配達する仕事です。

この時、自分が担当したのは片町・小立野コースと呼ばれるコースでした。一番面倒で難しくいやがられる仕事だと聞いたこともありますが、自分はこれ以外やることもなかったです。片町は金沢市内の中心部で県内で一番大きい繁華街です。路地も狭く、混雑もありました。

午前と午後の2回の配達があり、午前中の1便の出発は午前11時頃ではなかったかと思います。2便は午後の2時頃だったと思いますが、これは荷物も配達先も少ないことが多かったです。そういうこともあり、この時は、大口の荷物の積み合わせで、自分のコース以外の配達も多かったです。

この時も16時頃に仕事が終わることが多かったと思いますが、市場の連休明けなどになると荷物が普段の倍以上になり、運転手とトラックの数もその当時は少なかったので、まれに18時を過ぎるようなこともあったと記憶しています。朝は5時30分からだったかと思います。

この市内配達の仕事をしながら、金沢市観音堂から移転して年月も経っていなかった金沢市東蚊爪の運転免許センターに、大型免許の一発試験を受けに行っていました。ちょっと忘れてしまいましたが、最低でも7回、あるいは10回以上試験を受けて、相場より多めの回数でしたが合格しました。

合格当日の免許の交付だったと思うのですが、大型免許の公布日は昭和61年11月27日だったと思います。誕生日の翌日だったこともあり、憶えやすかったです。大型免許を取得したものの大型車の空きはありませんでした。それと翌年の1月ぐらいに免許の点数が満点になるまでは、長距離はするつもりは

なかったです。当時、長距離のトラックの仕事には重量オーバーがつきものでした。検問で捕まるということもありますが、高速道路でパトカーが荷物の重そうなトラックを見つけると、マイクで次のインターで降りるように言われ、インターにある台貫に乗せられるのです。

中西運輸商で大きな免停を受けることになったのもそれが多かったです。中国自動車道の新見インターの警官に目をつけられ、狙い打ちにされるとひとたまりもなかったです。どこの警察でもそこまでやることはなく、だいたいやる場所は決まってはいたのですが、事実上避けようのない場所です。

大型免許をとってからは、市内配達の仕事はほとんどしなくなりました。ポンコツの6トン保冷車で仕事をすることもあったと記憶していますが、ちょうどイワシの仕事の時期になっていたので、10トン平ボディ車でのミールの仕事がほとんどになりました。ミールとは主にイワシを原料にした魚粉です。

私がはじめにいた昭和59年当時はなかった仕事ですが、早ければその年の12月頃から始めた仕事のようでした。同じ石川県の珠洲市蛸島にある浜田漁業の仕事でした。浜田漁業金沢工場というミール工場が出来ていたのです。浜田漁業は蛸島丸という船団を所有していました。

昭和59年当時、金沢市場輸送の配車係は藤村と北浜という人のふたりでした。見た感じずいぶん年上に思えていたのですが、当時27歳とか28歳という年齢を聞いたような気がしないではないです。彼ももとは金沢市場輸送で運転手をしていたはずですが、珠洲市蛸島の出身でした。

昭和61年の8月に2回目の入社をしたときには姿はなく、前回に私がやめてまもなく蛸島に帰り、浜田漁業の配車係をしているとも聞いていました。詳しい話を聞いていたような気もするのですが、憶えていないです。それでも北浜がきっかけでミールの仕事をするようになった可能性は高いと思います。

浜田漁業金沢工場は金沢市内の外れでしたが、目立つ場所に工場がありました。金沢東インターから河北郡宇ノ気に出る農面道路の道沿いで、隣に屠殺もやっているという噂の食肉工場があり、他はほとんどが田んぼばかりで建物がほとんどなかったので、かなり目立っていたのです。
普通に金沢で生活している人は余り使う道でもなかったかもしれないですが、能登の宇出津の行き来には、よく使う道でした。宇ノ気の先の白尾インターから能登有料道路の乗り降りをすることが多かったからです。

浜田漁業金沢工場が出来た頃、イワシの仕事も規模が小さいものでした。初めはのちに「八戸軍団」とも呼ばれるようになった東北の出稼ぎのような白ナンバーの持ち込み運転手のグループが、直に仕事受けてやってきるような話でした。一人1台で5,6人ぐらいのグループでした。

7599号がイスズ自動車から新車で納入されたのは4月でしたが、その少し前にも同じイスズのトラックで、2台のダンプが新車で納入されていました。土砂積み禁止の普通ではないダンプでしたが、荷台の大きな頑丈そうなダンプでした。イワシ運搬専用の特別注文で設えたようなダンプでした。

昭和62年の春先のことですが、そのダンプに乗務した一人が金沢のMという人物です。告訴事件の重要な鍵を握り、事実ではないのに被害者と交際していた元彼氏という作り話の役割を演じた被告訴人YSKは、このMの愛人の息子という話でした。現在市場急配センターの社長になっている可能性の高い

Dという人物をイワシの仕事に招き入れたのもMだと聞いていました。金沢市場輸送の社長から金沢市場輸送と市場急配センターの会長になったTSKの口から直接聞いた話では、自分がヤクザの組長をやっていた頃、若い衆で組にいたけど、すぐにいなくなったという関係もあったようです。

総じてTSKの話というのは誇張と嘘くささがあり、どこまで本当なのか不明なのですが、そのような虚々実々を周囲にバリアのように張り巡らすのが、保身と安心につながっていたのかもしれないと、後になって考えるようになりました。謎と癖の強い人物であることは確かです。

Mは昭和40年代か仁義なき戦い、などのヤクザ映画が全盛の頃、映画の中からそのまま飛び出してきたような人物でした。今ではすっかり見かけなくなったタイプの人間ですが、昔はけっこういたような気もしますが、当時でも余りみないタイプの個性派という印象でした。

イワシの仕事というのは早い時期で12月の初めぐらい、遅い時期で翌年の4月ぐらいまでという期間でした。初めの方と終わりの方は、獲れるイワシの漁も少なく、仕事も少なくて、八戸軍団とダンプに限られていました。その後、全国的にイワシが捕れなくなり、ずいぶん前に浜田漁業金沢工場も閉鎖に

なっているはずです。浜田漁業金沢工場は一日に処理できるイワシの漁が600トンと聞いていたように思います。ほとんどがイワシですが、サバやアジも混じっていました。アンコウや大きなマスを見つけることもあり、それが楽しみでもありました。

イワシは金沢港の大きな堤防の先端付近でまとまって獲れることもあれば、魚群が見つからず、京都府の舞鶴沖や新潟県の佐渡島の近くまで行くこともあると聞いていました。舞鶴港や珠洲市の飯田港までイワシを積みに行ったこともありました。

そういえばダンベと呼ばれる四角い水槽にイワシを積んで、石巻や三重県、四国の方に運ぶこともありました。養殖ハマチのエサとして冷凍加工するのが目的であったと思います。

ダンベは10トン平ボディ車に平積みで14個ぐらい乗るものであったと思います。いつの頃からか群馬から来たKという人物が、よくそのダンベの仕事をするようになっていました。もう一人は小松市に家があるという運転手でした。とっさに思い出したのですが、名前はすんなり出てきません。

名前に亀という字がある二文字だったと思います。群馬から来たKは、フルネームでしっかり憶えていますが、ありふれすぎたような上と下の名前の組み合わせで、偽名の可能性もあったのではないかと考えるようになっています。ある意味、謎の鍵を握る人物なのです。それに元警察官を詐称していた

可能性もあるので、あえて実名にしておきたいと思います。小林健二という名前だったと思います。小林には自信があるのですが、検事の方は95パーセントぐらいの記憶の自信です。まあ、ほぼ間違いはないと思っています。

なにより驚くのは、彼が最高裁判事の息子であると話していたことで、それも判事の父親がTSKとは盟友で、父親に社会勉強をするようにと、TSKの会社で働くことをすすめられた、というような話をしていたことでした。この話を聞かされたのは彼が市場急配センターの社員として、イワシの現場の

監督のようなことをするようになってからであったと思います。初めに彼の姿を見るようになったのは、まだ金沢市場輸送の事務所が中央市場前の西念町にある頃でした。スポーツタイプではない大型のバイクの乗る姿をちょくちょく見かけていました。

0 件のコメント:

コメントを投稿