2013年2月22日金曜日

裁判員制度に向けた最高検の考え方<元検弁護士のつぶやき>



裁判員制度に向けた最高検の考え方

 最高検察庁が、裁判員制度対策として

 「裁判員裁判の運営に関する基本的な考え方」

というものを発表しました。

 上記リンクのページは、その概略を説明したもののようです。
 従来の立証のやり方とはかなり発想を変えた提案をしているのですが、そしてその提案自体は基本的には間違っていると思わないのですが、このような提案を検察庁だけでやって意味があるのかな、と思っています。

 最高検が、最高裁と協議したのかしてないのか知りませんが、裁判官と裁判員が協力して判断する裁判員裁判においても、裁判官の比重は決して軽くないと思われますので、従来の立証のやり方を変えた場合に、裁判官がそれについてこないならば、無罪の山ができてしまうのではないかと想像してしまいます。

 刑事裁判における従来の立証というのは、正直言いまして、重箱の隅をつつくような細かい立証をしてきています。
 否認事件においてはその傾向は顕著に表れます。
 精密司法(ときに皮肉混じりに超精密司法)と呼ばれています。
 上記の最高検の「基本的な考え方は、精密司法の緩和ないし脱却の方向性を示しています。

 しかし検察が精密な立証をするようになったのは、検察から言わせますと、裁判所が精密な立証を要求したからです。

 つまり、裁判所も精密司法から方針転換しない限り、検察庁だけで緩和ないし脱却を図ろうとしても、公訴維持の責任を負っている検察としては、元に戻らざるを得ないことになります。
 これは裁判員制度が機能不全に陥ることを意味します。

 最高検からボールを投げたわけですから、今度は最高裁がそれに答える必要があります。

 そして、精密司法というのは、検察官に質量ともに高度の立証を求めるものですから、弁護士から見ると、その緩和は被告人に重大な不利益をもたらすものと映ります。
 検察官としては、これで十分だと言っても、弁護人はそれでは立証不十分だ、と主張することが当然予想されます。

 とは言っても、裁判所が十分だと言えばそれまでなのですが、裁判所が何もアナウンスすることなく必要な立証レベルを変更した場合、弁護士としては予測可能性が失われることになり、弁護方針の決定等に重大な支障が生じます。

 その観点からも、最高裁として明確な考え方の表明をするべきだと思います。
 これまでそれらしきアナウンスがあったような気もしますが、私の知る範囲で(私の不勉強かもしれませんが)、明確な表明はなかったように思います(追記 明確な表明と言えるものかどうかはともかく、昨年11月ころに最高裁が試案を作っています。関連するエントリー参照)。

 但し、極端から極端へ振れる傾向がある日本人の気質からしますと、方針転換をした場合、今度は雑な事実認定になって冤罪が増えないかという心配が生じます。

 このあたりのバランス感覚は一朝一夕には浸透しないのでないかと危惧しています。

 裁判制度というものは歴史と伝統と国民性の産物です。
 必ずしも精密でない司法を支えるものは、それで十分と考える国民意識であり、それを正当なものとする制度の本質認識であり、また司法取引等の司法運営上の制度ではないかと考えています。
 バックグラウンドを異にする外国の司法制度の中から、その一部だけを導入した場合に歪みが生じるのは必然的な結果だと思われます。

追記(H18/4/4)
 精密司法に関する分かりやすい意見のエントリーです。
  精密司法と日本人の国民性をちょっと考えてみた(囲碁と法律の雑記帳)
モトケン (2006年4月 1日 22:03) | コメント(12) | トラックバック(1) このエントリーを含むはてなブックマーク  (Top)

引用:裁判員制度に向けた最高検の考え方 - 元検弁護士のつぶやき


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