2013年2月25日月曜日

医療界や医師に対する基本的な信頼というものは吹っ飛ぶでしょうね<元検弁護士のつぶやき>

医師はどうすれば安心するのか?

 このエントリは、「医療事故書類送検報道」の 内科の医者 さんのコメントへの横レスですが、内科の医者さん個人宛というわけではありません。

 内科の医者さんの不安感というものは多くの医師の皆さんが感じておられるだろうと思われますので、たたき台として使わせていただきました。
 ただし、若干の皮肉混じりのエントリになりそうですので、そのつもりで読んでください。

 やはり、大臣コメントでは何を言っているかわからない、というのが正直な気持ちです。

 たぶんそうだろうと思って私なりに解説してみたのですが、ほとんど理解されない、というか信用されなかったみたいです。
 法務・検察と警察の両首脳が相次いで、異例のタイミングと異例の内容のコメント、しかも歩調を合わせるかの同趣旨のコメントをしたわけですから、いずれも思いつきや失言の類ではなく、周到に検討を重ねてタイミングを図った上での発言であることが、明確な根拠をもって言えるわけですが、医師の皆さんはどうしても「法律」というものの保障が欲しいようです。

 謙抑的とはどういうことかを法律にしてもらわないと、今までと変わらず医療現場での患者死亡が警察の捜査の対象になる条件がわからないままです。

 言葉の意味の誤解(言い換えれば私の説明力不足)と法律ないし司法制度に対する無知・無理解と言ってしまえばそれまでですが、

 まず、法律で、過失犯の処罰範囲について、医師の皆さんが安心できるような文章表現でその限界を画することは、至難の業です。
 過失犯規定そのものが、犯罪の成立要件としては本来具体的であるべきであるにもかかわらず、抽象的にしか規定し得ていないのです。
 できるものならとっくにやっている、ということです。

 医師の皆さんが望んでいることは、法律ではなく、裁判所による法律適用によって明らかにされるべきもので、大野病院事件判決はまさしく医師の皆さんの期待に応えたものだと思うのですが、そして私ほか数名の法律家は何度もそう言ったつもりですが、「所詮地裁の判決だ」ということであまり安心の根拠にはなっていないようです。
 不信感のサングラスで見れば、仮に高裁の判決が出たとしても、「所詮高裁の判決だ」ということになったでしょうし、仮に最高裁の判決が出たとしても「いつ判例変更があるかわからない」ということになったのではないかと想像します。
 
 また、医師の皆さんから見れば、裁判所は裁判所、警察は警察(ついでに検察は検察)ということで、警察の捜査を法律で縛る方法がない限り、安心できないということなのでしょう。
 この点についても、裁判所の判断は、その手続的上流に位置する検察や警察の行動に大きく影響するという指摘を何度もしてきましたが、それも医師の皆さんに対してはあまり説得力がないようです。

 ということで、立法の問題になるわけですが、

 やはり謙抑的な捜査や告訴がどのようなものか法律で決めてもらわないと、ある種の医療行為は常に業過致死の捜査対象であり続けることは解決すべき問題と立法府に感じてほしいと思います。

と内科の医者 さん(たぶん、他の多くの医師の皆さんも)はおっしゃるわけですが、医師の皆さんは「立法府」というものをどのように認識されているのでしょうか?
 具体的には、国会議員です。多くの国会議員は医療についてはど素人でしょう。
 そして、国会議員の行動は、有権者の意向に強く影響されます。ここで問題になる有権者のほとんども医療についてはど素人でしょう。
 つまり、医師の皆さんが安心できるような法律を作ろうとすれば、まず、医療ど素人の有権者や国会議員の医療に対する理解、医療に対する信頼を得る必要があることになります。
 専門性の高い医療についての理解を求めることは容易ではありませんから、実質的に重要なのは医療ないし医師に対する信頼であることになります。
 私は、常識的な感覚として、信頼の最大の根拠は誠実さであるとの考えのもとに、いくつかのエントリで医療側に対して「誠実さ」や「信頼」の重要性を訴えました。
 ところが、それに対しては、司法は医療に誠実さを要求するが自らはどうなんだ、というような否定的なないし反論的な反応が多く返ってきました。
 しかし、敢えてもう一度言います。
 大野病院事件判決は医師の医療行為に対する信頼を前提にしていると思われます。
 検察は、その判決に対して控訴しないという行動で裁判所の判断を受け入れる意思を表明しました。その意思表明の中には、医師に対する基本的信頼があるものと思われます。
 モトケンが勝手に思っているだけだろうという意見があることは承知の上で言っています。
 安全調(事故調)の議論も、医師に対する基本的信頼がなければ成り立たないものだろうと思います。
 法務・検察や警察の首脳の「医療事故に対する慎重姿勢」の発言も、事故調の議論を踏まえたものと理解出来ます。
 つまり、今は医療界にとって追い風が吹いていると言ってもいいのです。

 しか~~~~~~~~~~し、
 
 もし、今、病院の倫理規定を無視して功名心に走ったとしか見えない(本人の気持ちはともかくそうとしか見えない)医療事故が起こったらどうなりますか? 
 そして、 もし、今、医療事故についてカルテの改ざんや口裏合わせがあったらどうなりますか? 
 そして、そのような医療事故やカルテの改ざんに対して医療界が目に見える具体的な自浄行動に出なかったらどうなりますか?

 医療界や医師に対する基本的な信頼というものは吹っ飛ぶでしょうね。

 医師のお手盛り審査機関になんか任せておられない。
 やっぱり警察にしっかりしてもらわないといけない。
 あやしい事故はみんな告訴だ。

というような事態が現実的に想定されます。

 ちょっと極端な例を挙げましたけど、要するに私が言いたいのは、

 医師の皆さんは医師以外の患者、患者予備軍、国民、国会議員、裁判所、警察、検察を味方につけないと医師の皆さんが一番望む法改正なんか夢のまた夢じゃないんですか?
 そして、味方につける唯一最大の、そして医師として可能な行動は、医師としての誠実な医療なんじゃないんですか?

ということだったんですけど、あんまり通じなかったみたいですね。
 このブログおいてすら、自分の発言が医師以外の人が読んだらどう読めてしまうか、という意識が希薄なコメントが散見されたように思います。
 たしか、医師の皆さんに、「このブログで何のためにコメントされているのですか?」という問いかけをした覚えもありますが、どこに書いたか忘れました。

 それはともかくとして、可能な立法措置について若干述べてみようかと思いましたが、長くなりましたので、ポイントだけ書きます。

 まず、謙抑的な告訴を規定する法律は無理です。
 告訴は私人足る被害者の行為ですから、法律で告訴権を認めながら、それを慎重に行使しろ、とかできるだけ行使するなというような法律は非現実的です。
 患者側の告訴を抑止する最大の要因は、医療側の患者側に対する対応です。
 ここでも「誠実さ」はキーワードです。

 刑事司法権力に対する謙抑性を強調する立法としては二つ考えられます。

 刑事司法の謙抑性というのは、私の理解では、制度運用における権力側の原則的姿勢という意味合いが強いと思っているのですが、それを立法化するとなると、どこかの法律に「医師に対する捜査や起訴は慎重に行うべし。」と言うような規定を盛り込むことが考えられます。
 しかし、こんな抽象的な規定は、訓示規定または努力目標的な意味しか持ち得ませんから、はっきり言って気休めです。
 これで医師の皆さんが安心してくれるならこれほど安上がりなことはありませんが(それでも医療に対する信頼がないと絶対立法されない)、現状に鑑み、医師の皆さんはそれほどお人好しじゃないでしょう。

 より実効性のある立法となると、制度的ないし手続的変更が必要になります。
 最も極端な立法として、医師に対する完全刑事免責(これは謙抑性という言葉の範囲を超えると思いますが)があります。
 そこまでいかなくても、過失犯の親告罪化も議論の俎上にのぼります。
 実は、事故調の議論もその一貫です。
 しかし、「医師に対する完全刑事免責」を除いて、医師の皆さんが完全に安心できる法制度は実現不可能です。
 
 医療側から見れば、医療現場における刑事司法権力の介入はほとんど冤罪だと理解することが可能だと思われます。
 犯罪でない行為に対して、犯罪として捜査が行われたり起訴されたりしていることが納得できない、という主張はそう理解できます。
 しかし、冤罪のリスクを完全に排除することは不可能なのです。
 満員電車で通勤しているサラリーマンは、医師以上に冤罪リスク(痴漢行為)を負っていると言えます。

 理想を求めるのは大事なことですが、理想的な制度でなければ嫌だ、というのであれば現状を変えるチャンスをみすみす逃すことになるでしょう。
 その結果、医師の皆さんの不安感は、これまでと変わりません。
 少しでも改善できれば、すこしは安心できるかも知れませんが。

追記
 書きそびれていた結論めいたものをコメント欄に書きました。
 No.19 モトケン さん | 2008年9月26日 19:14 |
モトケン (2008年9月26日 09:12) | コメント(279) | トラックバック(0) このエントリーを含むはてなブックマーク  (Top) 引用:医師はどうすれば安心するのか? - 元検弁護士のつぶやき


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